「なぁ、ハイデ」
 食後の茶を飲んでいたハイデリヒの前に椅子を引きずってきたエドワードが、まるで教会の懺悔室に向かう信徒のような神妙な顔を見せた。
 絶対何かある、と思いつついい加減彼の奇妙な行動にも慣れてきたハイデリヒはカップをテーブルに置くと一つ息を吐く。
「なんだよ」
「キスして、いいか?」
 物凄く真面目な顔でそんな事を言いながらついと伸ばして来た手をハイデリヒは自然な動きで押し止めた。だが実際の所は内心バクバクで一瞬流され そうになるのだがそんなに簡単に堕ちてたまるかという理性の方がまだ勝っているらしい。結局の所好きだけど今だ素直になれないハイデリヒだったりするのだ が。
「駄目です」
 目を見てまるで子供に『め、でしょ?』と叱る様にしてやれば、エドワードは凄みのある視線をぶつけてくる。
「なんでだよ」
 その視線は本当に恐ろしさが先立つのだがその中にはおぞましいレベルの色気が混在していて、本当にもうそんな目で見続けないでよもっと好きにな るじゃないかと泣き言言いながら本気で逃げだしたくなるのだがそれをなけなしの気力で押し止めてハイデリヒは目の前の殺人的美貌を睨み返した。
「何でもどうしても無いよ、駄目なものは駄目!」
 けち、と口を尖らして背を向けてしまったエドワードの背中を見て少し可愛そうだったかと思いはしたがここで情けをかけてはならん、と思い直しハイデリヒは傍らに置かれていた本を開きそこに挟まった真鍮のブックマークを指で弾く。
「そんなにキスばかりしてたら唇腫れる、だから駄目」
 いや実の所腫れる程の回数してはいないしそうなる程の深いものだってしてはいないのだが。
 でもそう言えばエドワードはそれ以上は迫っては来ない筈…だった、昨日までは。
 だが、いい加減彼も痺れを切らしかけていたのかしばし考えてから真剣な顔でハイデリヒに詰め寄った。
「口じゃない所、ってのも駄目か?」
「へ?」
 いつの間にか椅子から立っていたエドワードが、ハイデリヒの前に跪く様に膝立ちになり真摯な瞳で見上げてくる。
「だから、口じゃなければ良いのか、って聞いているんだオレは」
 投げかけてくる言葉は何か判らない所を見つけたときにそれをとことんまで調べようとする時のそれ。
 こういう時は反論しても聞く耳を持たない。
 それはいつの間にか覚えてしまったエドワードの習性というか本能。
 しかし、それが宇宙工学とかならともかく今彼が己の議題にしているのは思い切り俗物的なもので。
 大体、キス一つで何をそんなに真剣になっているんだろうかこの人は。
「……それは、たとえば頬とかおでことか手の甲とかって事?」
「そう、そうだ!」
 ハイデリヒの出した仮定上の対象物にエドワードは目を輝かせてうんうんと頷く。
 確かこの人は間違い無く己より歳上だった筈なのだがその表情は何故こうも幼さを見せるのだろう。
 だが、その表情は何処か切羽詰まった様な気もしないでも無いのだが。
 それに、まぁその辺りならされてもそれほど害はないだろう。
「なら、いいけど……」
 そう判断すると、少し困った顔をしてみせながらハイデリヒは軽い考えでその提案にJa、と返答してしまった。
「本当か?いいんだな?」
「しつこい。幾ら僕でも二言はないよ、エトヴァルト」
「Danke!なら早速……」
 何だか物凄く嬉しそうな顔と声で返答に返したエドワードの指先がハイデリヒの手に伸び……たかと思ったらそれは全く違う場所へと辿り着きカチャ、と金属音と立てたのだ。
「い、いぃっ?」
 エドワードのその指は、間違いなくというか紛れも無くというか確実に己のズボンのベルトの留め金に掛かっていた。
 何故『いた』、と過去形なのかというとハイデリヒの叫びにもその指は全く止まる素振りを見せずボタンを外してジッパーにその毒牙(いや指か)をかけようとしているのだから。
「エ、エエエエエエエトヴァーーーーールト!アナタ一体僕の何処を触って何をしようとしているんだ!」
 ぐい、とエドワードの頭を押し退ければ流石の彼も指の侵攻を止めるしかなく。
「え?何処って現状で言うならばオレは今お前の股間を触っていてそしてこれから起こる事を予測して言うならばお前のナニをオレの口とし」
 聞かれたので答えた迄だろうがその綺麗な顔から全く想像も出来ない程の下品な台詞をつらつらを吐き出して来る。
「ぎゃぁぁぁぁそれ以上言うなーーー!!!」
「何だよ今さらそれくらいの知識はお前でもあるだろうが」
「机上と実践は全く別モノ!」
 何とか押し退けようと必死になってエドワードの頭を押すハイデリヒとそうされてなるものかと前に体重を掛けるエドワードだったが不意にその顔がぐいと上向いた。
「……でも良いって言ったよな、お前。口以外ならキスして良いと」
「う、そ、それは!」
 確かに自分がそう言った、その対象となる場所は確認しなかったが。
「しかも重ねて言ったな、二言は無いと」
 この男の異様に記憶力の良い事をこんなところで恨む羽目になろうとは。
「……はい、言いました」
「だったら、お前がオレを押し退ける意味は何処にも無い。違うか、ハイデ」
 がくりと頭を垂れてハイデリヒは息をついた。
 いや確かにそうなんだが。
 でもだけど、これはちょっと……いきなりすぎる。
 しかもムードもへったくれも無いと来た。
「なぁ、ハイデ?」
 いつの間にか指を解き、腿に肘を置き頬杖を付いて見上げていたエドワードが困った顔を見せている。
「嫌ならちゃんと嫌だって言えば止める。幾らオレでも無理やりにはやらねぇよ、お前に嫌な思いさせる必要はないから。好きな相手を自分の手で泣かせる様な真似は流石に…な」
 さっきまでの少し悪戯な表情は何処かへ置き去りにして、今見せるそれはとても綺麗で真剣なモノ。
 言葉だって甘く優しくて、聞いていると顔が赤らんできそうな程だ。
「エトヴァルト…」

 結局の所この人は自分を本当に好きで、本当に大切にしてくれている。
 今迄だって自分が拒否したことは決してしてこようとはしない。
 でも、所詮は人間だ。
 好きだ愛しているという相手に全く性欲を持たずいられるとしたらそれはアンチセクシャルかもしくはそういう感覚…性的欲求が欠落しているという事だろう。
 だが、彼は己に対して『そういった』感情を向けて来ている。
 きっといい加減我慢の限界なのかも知れない。
 でも、事実まだ未経験でしかも相手が男となると好きという感情より躊躇が先に出る。

「さて、どうなんだ?嫌かやっぱりいきなりこういう事は」
 エトヴァルトは穏やかな瞳でハイデリヒを見つめて、少しあきらめをにじませた微笑みを向ける。
「……ご免」
 きっと返る答えは判っていたのだろう。
 ん、と小さく返事を返すとエトヴァルトはさ、と身体を起こして背を向ける。
 その侭出ていこうとするその状況にハイデリヒは慌てて手元に放置されていた本からブックマークを引き抜きその背に投げつけた。
 それが義手のハーネスに当たり、カツン、と音を立てて床に落ちる。
「え、え、えええええ、エトヴァルト!」
 滑らかな動作でゆっくりと振り返ったエドワードの仕草は、悔しい程に格好良い。
 眺めていたいけれど見ていると胸が破裂するんじゃないかというくらいに跳ね上がる。
 身体弱いんだから勘弁してよと思うけれど原因は彼で、その彼が好きなのも自分で。
 でも彼を拒む自分がいるのも、もっとその傍にいきたいと思う自分がいるのも事実。
「あああの、やっぱりいきなりは怖いんだ。でも、でも君の事嫌いって訳じゃないから、というか」
 もうその顔を直視していられなくなって、ハイデリヒは堅く目を閉じるともうどうにでもなれ!と息を深く吸い込んで立ち上がり、それを声と共に吐き出した。
「僕は、君が好きだから。君だから、だから君が好きなんだ!」
 言い切ると、流石にいきなり立ち上がってしかも叫んだのが効いたかグラリと足元が振れる。
 倒れるか、と思った瞬間しっかりと片腕で抱き抱えられて上気した頬がさらりとした髪に触れた。
 そのままずるずると引きずられてソファに戻され座らされて。
 向かい合うように座ってきたエドワードの視線が少し笑って、でも何処か困惑しているように見えた。
「ハイデ…言いたい事も気持ちも判るけど文章の意味が判んねぇよ」
 くく、と小さく笑う声が聞こえてハイデリヒは軽い息と共に目を閉じる。
「判らなくていいよ、僕が一番判らないんだから……」
「……やっと、言ってくれたな」
 その声は、笑っていなかった。
 何処か、湿ったようは、震えているような。
 嬉しさとか驚きとか、色々な感情が混ざりあって混沌としているそれ。
「え?」
「やっと、好きだと言ってくれた……」
 その、表情は。
 纔に泣きそうなのを堪えて、微笑っていた。
「お前の言葉をやっと聞けた、アルフォンス、お前の心をやっと」
 伸ばされた指がゆっくりと頬を撫でて、肩を辿りそっとそっと抱き寄せる。
「好きだ、好きだ、愛してる、愛しているんだアルフォンス」
 胸に埋められたその表情は判らないが、今も彼は泣きそうな侭に微笑んで。
 それは哀しみではなく、幸せなのだと彼は顔を見せぬままに言葉で笑みを見せる。
「エ…ド、ワード……」
 だが、それ以上にハイデリヒの目を見開かせた、事実。
「君は、いま僕を、なんて……」
 そう、今、彼は。
 まだ呼べないと言ったハイデリヒの名を呼んでいるのだ。
「アルフォンス・ハイデリヒ……オレはずっと怖かったんだ。弟と同じ顔をしているという事実が先に立ってしまって、お前を代用品にしていると思われているんじゃないかと」
「僕は、そんな事は一度も」
 わかっている、と腕の中の彼は回した左腕にぐ、と力を込めた。
 右は胸元のシャツを握ろうと押し当てられていたのだが、見ため人と変わらぬ造りのそれも細かな動きは苦手かシャツを掴もうとしても滑り落ち、もどかしそうにその手は胸元を辿る。
 押し当てたままだってあぎとが、不安に揺れた瞳を見せて上向いた。
「お前が、オレを心の何処かで拒絶してるんじゃないかってずっと、ずっと」
 あの強引で凶悪で不敵な、神をも凌ぐ程の輝きを持った貌の下に潜んでいたのがまさか、こんな切ない感情だったなんて。
 あれは、虚勢だったというのだろうか。それともただの強がりなのか。
 いつだって『好きだ』という声にも、表情にも迷走いなんて見えなかった、のに。
「エドワード、僕が君を拒絶出来るとでも思っているの?もうとっくに僕は君の術中に落ちている。こんなに好きにさせて、こんなに好きでいさせて、こんなに好きでいてくれて…もう僕は君の手を離すことなんて出来ないのに」
「それは、お前の…お前の本心を言葉で聞けていなかったからだよ」
 強く、気高く、美しいその存在が全てだと、そう信じていた、のに。
 今腕の中の彼の人は、かき抱いたら崩れて消えてしまうのではないかと思う程に……儚い。
「でも、ちゃんと聞けた、お前の言葉で。やっと……お前を呼ぶ決心が、着いた」
 はっきりとした言葉に晒した儚さを柔らかな、しなやかな強さに映し変えて。
 エドワードは、見せたこともない柔らかな日だまりの表情で、笑った。
「待つよ、お前がオレを…そういう意味で受け入れてくれるまで待つ。だからお前に好きと言うのとキスする事だけは拒まないでくれないか、アルフォンス」
 待つのは慣れている、と言ってそっと寄せられた顔が近づき、頬に唇を触れさせる。
 ちゅ、と可愛らしい音を立てて一瞬、それだけで離れていった温もり。
 それを追うようにハイデリヒは知らずエドワードの頬を伝っていた纔な涙に迷うこと無く唇を寄せた。
「拒まないよ、君の決心から逃げる訳にはいかないから」
「あ、アル……?」
「僕の思いを君が受け止めて、君の思いを僕が受け止めて。そうやって、好きという気持ちが膨らんだ。どちらの想いが大きくて重いとかじゃ無くて、お互いが想い合えるからそれは愛になるんだ」
 これも等価交換、と言えるかな?と笑うハイデリヒにエドワードは一瞬間の抜けた顔をして見せて。拍を置かずにそうだな、と頷き。
 今度はちゃんと湖水の瞳を見つめてそっとそっと唇を合わせた。
 触れるだけでも、今はそれで構わないから。
「全く、お前がそんなんじゃもっと好きになる」
「その言葉その侭返すよ、エドワード」
 くすぐったい、甘いその触れ合いから進むのは近いその先。
 だけど。

 そのやさしいキスは、ずっとずっと変わらない。
 
 
 
 
 



 

おまけ。

「で、いつになったらそれ以上進んでイイ訳?」
「も、もー少し、あと本当ーに少しだけ待って!」
「…しょうがねぇな、と」
「ど、何処いくの?」
「いや、実はあんまりお前が可愛いんで制御が効かずに思わず勃っちまってさ、まぁお前に強制出来ないから」
「出来ない…からってまさか」
「一発抜いてこようかと」
「どどどどどどうしてそういう事サラっとそういう顔で言うんだ君はーっ!」
「…じゃあ、お前がシて、慰めてくれるか……アルフォンス」
「そっそそそそんな事っ、いますぐ出来るかーっ!」

 盛大な音と共にエドワードがまた部屋の隅まで突き飛ばされたのは言う迄も、無い。
 
 


『やさしいキスを、して』 05.5.9


 
 
 
 

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