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熱を、出した。
それは日常的な事ではあったのだが、今回は少しばかり状況が違う。
季節の変わり目に加え、この国特有の秋を軽々と飛び越える冬の訪れは何年経ってもこの身体に馴染もうとはしなかった。
型を決めたように続く微熱と肺の奥から響く咳。
ぼんやりとした思考の中で、床に根を張ってからそろそろ一週間かと思いつき寝たままでも見上げる事の出来る窓から透ける空を瞳に映した。
そういえば、なにか忘れているような…
そんな考えが過ぎったが収まらぬ淡いまどろみには逆らえず。
空の蒼さを写した瞳をゆるゆると閉じて、柔らかな眠りに落ちていった。
どれくらい眠っていたのだろう。
先とは違う、自然な目覚めに身体を起こしてみれば苛まれていた怠さは殆ど無く、喉の奥のいらつきもかなり楽になっていた。
やっと落ち着いたかと胸を撫で下ろし、椅子の背に掛けたままのガウンを羽織り部屋を出る。
顔を洗い、何か飲もうとキッチンのドアを開けた瞬間。
「お、起きて平気か?」
珍しい光景に思わず返す言葉を忘れ目を丸くする。
優しく笑った金の瞳は、確かにオーブンの前で鍋を掻き回していた。
「ハイデ?…おい、どうした?」
「あ、え、う…も、モーゲン…じゃないか」
「夕方、だな。まぁそんなことはいい、ワイン温めてやるから座ってろ」
「う、ん」
ダイニングの椅子に座れば、その後ろ姿が小鍋を取り出し瓶に入ったグリューワインを注ぎ込むのが見える。
同居人が台所に、しかも料理の為に自ら立つ等今まであったことは無く。
明日は雨か嵐か、そんな事が頭を過ぎった。だがそんな思考を知らぬまま差し出されたトレイに載ったそれに、ハイデリヒは目を再び丸くする。
スープ皿に湯気を立てるそれは黒い森のスープと言われるもの。添えられたパンも柔らかめのものを選んで買ってきたようだ。
そして、小さなアプフェルクーヘン。
「ったく、今日起きなかったら全部台なしになるとこだった」
出されたものは、ハイデリヒの好物ばかり。
「ま、なんだ。体調も良くなったことだし。かさねておめでとうだな」
傍らに無造作に置かれていた新聞の日付は。
8. November
「Alles Gute zum Geburtstag,Alfons」
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「覚えていてくれたんだ、ね」
足下に現れたその姿にエドワードは刮目し、直ぐにそれをすがめた。
寝台の周りを取り囲む家族達に、その姿は見えていない。
見えるはずも、ない。
固く、手を握りしめる弟でさえ、気付いてはいないのだ。
その存在が誰なのかを知るのは、今となってはエドワードのみ。
あの時と変わらぬ姿で、あの時のままの笑顔で佇むその姿は、この場にいる誰も知る事はない。
あれから、幾年経ったのか。
「忘れるわけが、ない…」
そんな事を考えて、エドワードは少しだけ口角を上げる。
それに気付いた家族達が口々に何かを言っているが、その声は既にエドワードには届いていなかった。
どんどんと遠ざかる現実。
攫み取ろうとする事すら出来ない様に、握られた手の温もりすら今は、遠い。
だが、それは既に覚悟し終えたこと。
余りにも永く、生きたのだ。
長く、永きを渉ってただ生き抜いたその事実は誰しも必ず終焉を迎え、何時かその物語を閉じなければならない。
今、その時が来たと悟るには、それは充分な情景だった。
「もう、そんな季節だったのか」
生まれ来たその日に、散ったいのち。
忘れ去るには、それはあまりにも重い想い。
「忘れないで、くれたんだね……」
勿忘草の花の色を映した瞳は、あの時のままに微笑んで。
その声は、あの時のままに色褪せる事無く、その名を呼ぶ。
「エトヴァルト」
すう、と身体が軽さを帯びた。
寝台に伏せたままの身体はそのままに、ゆるりと立ち上がったその姿は年老いたそれではなくあの時のままの、姿で。
魂魄と肉体を繋ぐ精神の糸から逃れ、エドワードは改めて寝台を囲む家族を見つめた。
結局、エドワードが手に入れた『家族』は全て弟の縁に連なるもののみではあったが、それでもかけがえのないものではあったのだ。
何より、あの時からずっと側に居てくれた弟への感謝は計り知れない。
だが、時間は時に残酷だ。
全てを置いて、旅立つ事を強攻に迫る。
別離れは、唐突に訪れるのだ。
弟が、握った手を必死で揺さぶっている。
その感覚が左手に僅かに届いている事でまだ繋がっている事を確信すると、エドワードはありがとう、と言葉を紡いだ。
そして、フツリと繋がっていた何かが途切れるのを感じた瞬間、ぶわりと身体が空に舞った。
泣き、名前を呼ぶ家族達の姿が遥か遠くに見えて、エドワードは瞳を閉じる。
ありがとう、その言葉だけしか見つからなくて。
唯、瞳を閉じた。
「エドワード」
言葉に目を開けば、優しい笑顔が見える。
伸ばした指が、目尻をそっと拭いさった。
「君に逢えた事を後悔してない。そう言いたかった…ずっと」
高い、空に舞う風がヒュンと音を立てる。
「君に生きて欲しいと願い続けたのに、今ここに君が居てくれる事が…君に心を伝えられる事が嬉しくて仕方無い」
「……オレも」
舞う筈もないだろうコートの裾が、ふわりと風に舞った。
「お前に会いたかったよ、アルフォンス」
澄んだ空気に乗って、響いたそれは夜明けの鐘。
遠い地平線から昇る朝日が、闇の空を蒼く染め変え新しい日を告げる。
その鐘が、銃声に変わる事のない様に、と。
大切な人達が、悲しむ事のない様に、と。
朝と夜が何事もなく廻り続ける様に、と。
ただ、願い望み続けるだろう。
「……行こう」
一陣の風か強く木々を鳴らしその葉を巻き上げるのを合図にする様に、その姿は光の中に緩やかに溶けていった。
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『BELL DES TAGESANBRUCHS』 2007.11.8
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