「エトヴァルト? 居ないの?」
ハイデリヒの返事を待つまでもなく、本来の部屋の持ち主が不在なのは明らかで。
きちんと整頓された室内は少しばかり空気が籠もっていて、この部屋が暫らく使われていないことが見て取れる。
「これで4日目か…まったく嘘つきな人なんだから」
やれやれと軽く息をつくと、ハイデリヒは換気の為に窓を開け放つ。
研究に没頭しだすと周囲はおろか、自分自身さえ顧みない同居人。
今頃は何が大詰めなんだろう。彼の発想の素晴らしさは抜きん出ているから、また1人で突っ走ってるのだろうか。
おそらくは時間の経過も寝食も忘れて。
それがあまりに容易に想像できて、ハイデリヒは苦笑するしかない。
「…自分でも少しは労らなきゃ駄目だって言ってるのに」
研究に打ち込む余り自分を疎かにすれば、必ず反動が来るからとハイデリヒが幾ら言っても聞く耳を持たない、とても薄情な彼。
‥‥自分が言っても、全く何も効果がない。
ハイデリヒを好きだと言うくせに。
この上なく綺麗な笑顔で囁いてくるくせに、肝心な所はスルリとはぐらかす、黄金色した猫みたいな彼。
「好きな奴の言う事なんだから、少しは聞く耳持てよ…」
ベッドの上に無造作に置かれた彼のシャツ。
打ち捨てられたようなそれを、まるで今の自分みたいだと思ってしまうのは行き過ぎだろうか。
彼が手に取ってくれなければ、こんなふうに捨てられてそれっきり。
好かれてない訳じゃないけど。
愛されてない…訳じゃないのだけれど。
だけどでも。
やっぱり、傍にいなければ淋しいし。
体調を顧みなければ心配になるし。
おそらくは1人でも全然平気なんだろう彼を想う時、ハイデリヒはどうにも堪らなくなる。
ああもう、思春期の女の子じゃあるまいし、何だって彼1人のせいで、こんなに振り回されなければならないのか。
「だけど、少しは気にしてくれよ、エトヴァルト…」
シャツを手に取り、あたかも彼に囁くようにつぶやいて。
そっとシャツを抱き締めれば、消えかけている彼の残り香。
清潔な陽の匂いでなく。
男特有の汗臭さでもなく。
少し乾いた、それでも『彼』と分かる不思議な匂い。
その腕に抱かれなくても、ほんの少しでも安心してしまう自分が、情けないやらバカみたいやらで結構本気で凹みたくもなるけれど。
「だって、好きだって君が言うから」
幸せそうに。
切なそうに。
哀しそうに。
いつだって心臓鷲掴みな顔をするから。
ああもう、本当にどうしようもない。
シャツを抱いたまま、ハイデリヒはベッドに寝転がる。
腕の中のシャツに比べれば彼の匂いは殆どしなかったけれど、それでも彼を思い起こさせるには充分で。
「…早く帰ってこい、エドヴァルド」
目を閉じて、小さな小さな声で呼ぶ。
何より愛しく切ない、唯一の名。
こんなにも弱く、
こんなにも情けなく、
誰かを呼ぶ事なんて無いから。
閉じた瞼の裏、鮮やかな黄金の髪がふわりと揺れる。
ああ、早く触れたいなと溜め息を1つ。
このまま眠って、次に目覚めたら、彼が帰ってきていればいいのに。
そんな事を考えながら、目を閉じた。
少しだけ、幸せな気持ちになって。
END