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ねぇ、エトヴァルト
「……もう、呼ばれる事も無いんだな」
その呼び方は、ただひとりしか口にしなかった。
研究所の人間も、下宿先の家主も、知り合った誰しもがそのままの名で呼んだのに。
彼が、彼だけがただひとり、其の名を自国の音に変えてそう、呼んだ。
「もう、呼んでくれないんだな」
何度言おうとも。
何度正そうとも。
その読み方を変える事は無かった。
正しく呼べと毎度叱っていたけれどいつしかその響きにも慣れて。
それを彼にだけ赦したのはいつの事だった、か。
「なぁ、呼べよ」
エドヴァルト、と。
呼ぶその声の響きは。
いつしか自分のこころを溶かしていたのだ。
凍らせたこころを。
路を失って凝ったこころを。
あの言葉に宿った温もりだけが、静かにゆるゆると。
時間をかけて溶かしたのだ。
「ハイデリヒ」
ここにいると
ここにいる、と
いったじゃないか
「ハイ、デ……」
もう、呼ぶ声は、聞こえない。
「あ、る…ふぉん、す」
ただただ、記憶のうちに眠る声が。
壊れたレコードの様に脳裏に繰り返される、だけ。
「Alfons……オレ、は」
一時も流れる事の無かったそれが。
薄情者と言われても、最期を聞いても、落ちる事の無かったそれが。
はたりと、白い石に落ちて痕を印す。
ねぇ、エトヴァルト
「知って、いたんだ……」
僕達は
いつまで、いっしょにいられるのかな
「お前の時計に……残された時間、を」
僕にはもう
時間が無いんです
「しって……いたん、だ」
共に、歩もうと。
言えたら、よかった。
ずっといるよ、と。
言えたら、よかった。
けれどもう、その言葉は届く事は無く。
ただただ、白い石に涙と共に落ちるのみ。
「呼べよ、オレを……呼べ…よっ……お前の時計を、巻き戻し、て、やる……何をし、てでも……巻き戻っ、してやるか、ら」
斜陽の影が包むそこに、人の姿は最早無く。
吹き抜ける風が、流した金の髪を吹き晒し。
温度を奪われた右の腕を形作る金属から伝わる冷たさが、現実から逃げようとする意識を引き摺り戻す。
ひとり、断罪等意味が無い事はとうに分かっているというのに。
ひとり、その場で誰も知りえぬ慟哭を落とす。
「なぁ、よんでくれよ……オレを、呼んでくれよ……っ!」
うしなったものは、もどらない。
誰よりもそれを理解している筈なのに。
頭に浮かぶのは、その人を取り戻す事すら出来ないあの構築式。
「わかってるんだ、わかってるんだAlfons、お前はそんな事望んじゃいない事は判ってる。それが不可能な事も判ってるんだ……だけど、だけどオレはもういちどおまえ、に……っ?」
わらって エトヴァルト
ふわり、と。
耳元を掠めた。
きみのとけいを ぼくはしっている
いつか とけいがとまる そのときに
それは。
どこかあたたかな。
ぼくは きみを よぶから
変わらぬ、彼の声であったのか。
「あ……」
空耳なのかもしれない。
涙と嗚咽に浮かされた自分の幻聴かもしれない。
赦されたいと願うあまりの妄想かもしれない。
それでも、なによりも。
「ぁ、ぅっ……く」
今、ようやっと流れ落ちた凝り固まり解ける事を忘れた悲しみを解放へ向かわせるには充分なもの。
「ぅ、ぁ…あああああああああああ!」
堰を切った様に、感情があふれ落ちた。
膝から落ち、標の前に跪いたまま。
声と共に落ちる涙を止める術は今は無く。
ただただ、落ちる涙を吸い込む石の下眠る彼だけが。
そのようやっと解けた想いをそっと静かに受け止めて、いた。
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『Rufen Sie einen Namen』 2008.11.9
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